そのためには何が他の人に必要か考えなければいけませんが、どうしたらよいですか。 – 聖山アトスのパイシイとの対話 – Q&A – Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

https://ebooks-orthodoxy-japanese.blogspot.com

EBOOKS – 正教会 – ORTHODOXY – JAPANESE – 日本人

そのためには何が他の人に必要か考えなければいけませんが、どうしたらよいですか。

聖山アトスのパイシイとの対話

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

――長老様、そのためには何が他の人に必要か考えなければいけませんが、どうしたらよいですか。

――他人の立場に自分を置いて考えてごらん。そうしたら何が必要か分かるじゃろう。自分の殻の中に閉じこもっておったら、他人が何を求めておるか分かるはずもないからな。

今は多くの人が、どうやったら他人の場所に座れるかということばかり考えて、自分を他人の居場所に据えてみるかということはてんで考えもせん。領聖の時によくあることじゃが、他人を押しのけて聖杯に近づこうとする。「私は急いでいる、用事があるんだ」とそれぞれが考えていて、「私は領聖するにふさわしい人間であろうか?」とか「もしかして私より急いでいる人がいるかもしれない」などと考えておるかの?とんでもない!領聖して、平気な顔で出ていくのじゃ。万が一ご聖体がお前さんのぶんだけ足りなかったとしても、お前さんはそれを喜ばなければならん。それは誰か他の人がご聖体にありついたことを意味しているからじゃ。司祭の手のなかにたった一つのご聖体、たった一つの真珠が残ったとして、それをお前さんではなく、領聖する必要のある瀕死の病人が受け取ったとしたら、どうして喜ばずにいられよう?ハリストスがわしらに望んでおられるのは、実はこのことなのじゃ。こうしてハリストスが心にお入りになり、人を喜びで満たすのじゃ。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_自己愛とは何か.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

Advertisements

私は姉妹のうちの一人とうまくいっておりません。 – 聖山アトスのパイシイとの対話 – Q&A – Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

https://ebooks-orthodoxy-japanese.blogspot.com

EBOOKS – 正教会 – ORTHODOXY – JAPANESE – 日本人

私は姉妹のうちの一人とうまくいっておりません。

聖山アトスのパイシイとの対話

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

――長老様、私は姉妹のうちの一人とうまくいっておりません。

――それはな、多くの人は他人が自分を圧迫していると感じるのじゃが、実は自分が他人を圧迫しているということが見えないんじゃ。他人に要求はするが、自分に対してはどうかの?霊的生活というのは、このように逆に考えなければならん。わしらがこの世に生まれたのは、休んだり、便利に快適に暮らすためかの?陽気に楽しく暮らすためではなく、自分を浄めて、来る別な人生に向けて準備をするためじゃ。そうではないか?

もしわしらがいつも自分のことばかり考えて、好きなことばかりしていたとしたら、じきに他人もわしらのことを考え、仕え、助けてくれるよう求めるようになるじゃろう。つまり、自分がよければいいということじゃ。「私はこうしたい」と一人が言えば、「私はああしたい」と別な者が言う。おのおのが自分の好きなことを追うが、心はいつまでたっても落ち着かない。なぜなら、本当の平安は、人が自分のことでなく、他人のことを考える時に訪れるからじゃ。

1941年、ドイツ軍に占領されておった時、多くの村が焼き払われたり、人々が殺されたりしておった。わしらはコニーツァから山の方へ疎開したんじゃ。ドイツ軍がコニーツァに侵攻した日、わしの兄弟二人は山を下りて、トウモロコシ畑の土を掘り返しに行っていた。わしはその知らせを聞いて母のところへ飛んでいった。「お母さん、下に行ってお兄さん達に危険だって伝えてくるよ」。母はわしを行かせようとしなかった。なぜなら周りが言うに、いずれあの二人はだめだろう、だったらせめてこの子だけは引き止めておけ、さもないと子供を皆失うことになる、ってな。「そんなことがあるものか」とわしは思い、長靴をはいて外に飛び出した。あまり急いでおったもので、長靴のひもをきちんと結んでおかなかったんじゃな。撒水したばかりの畑でぬかるみにはまって、長靴だけすっぽ抜けてしまった。わしは靴は放っておいて、はだしで川沿いに走っていったのじゃが、そこはアザミがいっぱい生えておったのじゃよ。1時間近く夏の暑い中、トゲだらけの草の中を走って、何の痛みも感じなかったな。畑に着くと兄弟に大声で「ドイツ軍が来たぞ、早く隠れて」と叫んだよ。そこへ武装したドイツ軍の兵士が近づいてくるのが見えたんじゃ。「畑を掘るのを続けて。僕はトウモロコシを間引きするふりをしているから」とわしは言ったんじゃ。ドイツ兵は脇を通っていったが、何も言わなんだ。後で自分の脚を見たら、トゲで傷だらけになっておった。その時まで痛いなんてことさえ感じなかったのじゃ。このときの喜びといったら!自分を犠牲にした喜びじゃ。自分の兄弟を見殺しに出来るかの?もし彼らに何か起こっていたら?その時はわしの良心が苦しめたじゃろう。たとえわしに良心がなかったとしても、自分を正当化して言い訳する苦しみに苛まれたじゃろうな。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_自己愛とは何か.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

自己愛とは何ですか。 – 聖山アトスのパイシイとの対話 What is self-love? – Q&A – Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

http://saintpaisios.wordpress.com

SAINT PAISIOS OF HOLY MOUNT ATHOS

自己愛とは何ですか。

聖山アトスのパイシイとの対話

What is self-love?

Q&A

Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

――長老様、自己愛とは何ですか。

――自己愛とはな、人間が古ぼけた自分にこだわりを持つこと、つまり古ぼけた自分をよけいに愛することじゃ。腹いっぱい食ったり、自分勝手だったり、頑固、ねたみ、みんな自己愛から来ておるのじゃよ。ある者は便利さや快適さを求めて、他の人のことは考えもしないものじゃ。またある者は自分の健康にこだわりすぎるあまり、睡眠やら食べ物やらの決まりで頭がいっぱいだったりする。またある者は、周りが認めて評価してくれることばかり要求している。ちょっとでも傷つくようなことがあれば、すぐに憤慨しよる。「何でおれのことを認めてくれないんだ?どうするか見ていろ!」ってな。いやはや、自己愛とは恐ろしいものじゃ。

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_自己愛とは何か.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

エギナの聖ネクタリオス St Nektarios of Aigine – Greece

http://orthodox-heart.blogspot.com

http://saintsofmyheart.wordpress.com

SAINTS OF MY HEART

ORTHODOX HEART

エギナの聖ネクタリオス

エギナの聖ネクタリオス (+1920)

(St Nektarios of Aigine Island, Greece)

エギナの聖ネクタリオス

エギナの聖ネクタリオス(ギリシア語: Άγιος Νεκτάριος Αιγίνης, 英語: Saint Nektarios of Egina、1846年 – 1920年)は、正教会の聖人。日本正教会で多用される教会スラヴ語由来の転写ではネクタリイ。

修道院の設立と指導、数多くの著述、信徒の精神的指導、および数々の奇蹟によって知られる。神学者、哲学者、詩人、教育者、禁欲主義者、神秘主義者などと称されるほどの多才な面があった。歌詞は公祈祷の祈祷文によるものではないが、全世界の正教会で愛唱される聖歌『アグニ・パルセネ』(ギリシア語: Αγνή Παρθένε)を作曲してもいる。

1846年10月1日、トラキアのシリヴリアの貧しい家庭に生まれた。生まれた際の俗名はアナスタシオス・ケファラス(ギリシア語: Αναστάσιος Κεφαλάς)。14歳のとき、働きつつ教育を受けるためにコンスタンディヌーポリに移住。1866年からはキオス島の学校で教えつつそこに7年間住み、30歳で修道士となる。3年後、輔祭となり、ネクタリオスの名を与えられる。1885年にアテネ大学を卒業。大学時代から、多くの聖書註解を含む多くの著述を行う。

アレクサンドリアで司祭に叙聖され、カイロの教会に奉職。これは名誉ある職分であった。1889年に敬神の念と説教者としての実力、牧会能力が評価され、総主教ソフロニオスによりペンタポリス府主教に叙聖される。すぐにネクタリオスの人望が高まるが、その声望を妬んだ聖職者達によって噂が立てられ、噂を信じてネクタリオスの弁明を聞かなかった総主教ソフロニオスにより、弁解の機会も与えられず教会裁判の手続きも経ず、エジプトから追放される。1891年にギリシャに戻り、何年かを説教者として過ごす。

1894年にアテネ・リザリオス教会学校の校長を任ぜられ、15年間在職しこの間多くの著作をのこす。1904年には何人かの修道女の求めに応じ、エギナ島に至聖三者女子修道院を設立する。1908年12月に神学校校長の職を辞し、エギナ島の至聖三者女子修道院に一修道士として隠棲する。ここでも著述を行い、精神的指導を求めて来る近隣の人々の痛悔を聞いた。
1920年11月9日、永眠。永眠後の遺体の傍らで、重病人が快癒する奇蹟が起きたと伝えられている。埋葬式には多くの人がギリシャ・エジプト全土から訪れた。1961年4月20日に列聖。生前からネクタリオスを聖人とみる人々が多かったが、正式な列聖はこの日に行われた。

Wikipedia

パイシオス長老との談話」から序言と伝記 – アタナシオス ラコヴァリス 著 The life of Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

http://saintpaisios.wordpress.com

SAINT PAISIOS OF MOUNT ATHOS, GREECE

パイシオス長老との談話」から序言と伝記

アタナシオス ラコヴァリス 著

The life of Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

私は長老パイシオス神父のことを12年間以上知っている。彼が私を自覚的な正教信徒にしてくれたのだ。彼は信仰においても実生活でも私を導いてくれ、生活上のあらゆる問題点について助言してくれた。

 私は聖なる山(アトス)で7年間以上暮らすという祝福を得た。5年間はAthoniada Schoolの教師として、そして2年間はイコン画を学ぶために。私は長老のすぐそばにいたかった。彼に会った瞬間から、私は彼にひきつけられずにはいられなかったからだ。

私はしばしば言ったものだが、彼は母よりも私を愛してくれた。私がこんなことを言うのを母が許してくれるように。母は実際私をどんなに愛してくれただろう。しかしパイシオス長老の愛は普通の人間的愛よりはるかにまさるものであった。彼の愛は、天的なものであり精神的なものであった。

パイシオス神父は私に対してまるで実の父親、いやそれ以上の者のように接してくれた。私はしかし自分自身を放蕩息子のようにいつも感じていた。私は彼を“父”とはとても呼べないし、私が彼の精神的な息子であるなどとは、とてもではないが言えないのだ。その理由だって?私は彼にちっとも似ていないからだ。私は、彼の美徳にならって心からの善意を持とうと思っても、とうていできない。「もし私を父と呼ぶことを願うなら、私の業にならえ」と言われている。じゃあ、私はパイシオス神父にならったか?とんでもない。だから彼を父と呼ぶ権利は私にはない。長老の徳は彼の徳で、私自身の意気地のなさは私の意気地のなさなのだ。

彼と会話した後、そう頻繁ではなかったけれど、彼の助言を覚えておくために彼の言葉を書きとめておいた。ふつうは会話の直ぐあとで、あるいは数時間後に、たまには1日か2日後に、私は長老の言葉をそのまま書きとめた。これらの言葉を書きとめる時には、それがいつ話されたかに注意して日付を入れた。これらの言葉は彼の庵を訪問した時あるいは徹夜祷のあと彼と話す機会があった時に話されたものである。

長老が永眠された今、彼の助言を私の信仰における兄弟姉妹に伝えることが私の義務だと考える。多くの人達がそれらの助言を実際生活の中に取り入れたいだろうし、それによって私よりずっと利益を得るだろうと私は信じている。幸いなる者は言葉を生きる人であり、言葉をただ聞いたり読んだりするだけの人ではないのだ。

祝福された長老パイシオス、この世での名前アルセニオス エツネピデスは、1924年7月25日にカッパドキアのファラサに生まれた。彼はコニツァで成長し、アトス(聖なる山)で修道士になり、そこで彼の人生の大半を過ごした。彼は1994年7月12日に亡くなり、テッサロニカのソウロウテにある神学者ヨ Continue reading “パイシオス長老との談話」から序言と伝記 – アタナシオス ラコヴァリス 著 The life of Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)”

東方正教会の歴史 History of the Eastern Orthodox Church

http://cominghomeorthodoxy.wordpress.com

COMING HOME – ORTHODOXY

SPRING-MOUNTAIN-1920x1080

3a64786c88f7d4998f2246d16baeef33

東方正教会の歴史

History of the Eastern Orthodox Church

1 初代教会

正教会の歴史を説明するには、最初にハリストス(キリスト)とその弟子たちについてふれなければなりません。正教会は、ハリストス(キリスト)によって作られた教会そのものなのです。ハリストス(キリスト)は、十字架にかかり、死に、そして復活した後、昇天されました。そしてこの世の終わりに光栄のうちに再び来られます(「再臨」という)。このハリストス(キリスト)の昇天と再臨の間の期間のために、ハリストス(キリスト)は私たちに「教会」を与えられました。

「教会」はギリシャ語で「エクレシア」と言います。これは「呼び集められた者の集まり」という意味をもつ言葉です。つまり「教会」とは、この世においてそして天国において神の言葉を守り、神の御旨と業を行うために招集された神の民の集まりです。

ハリストス(キリスト)は、凡そ30才の時に公に人々の前に現れ、神の国を教え、やがて十字架と復活という救いの業をなされました。このことを「公生涯」と言います。歴史的に言えば、ローマ皇帝ティベリウス在位(紀元後14~37年)の時代です。
ハリストス(キリスト)はその「公生涯」の最初から弟子たちをご自分のそばに招きよせました。弟子たちは次第に増えていき、その中から特別に12人を選びました。それが「十二弟子」とか「十二使徒」と呼ばれる人たちです。ハリストス(キリスト)は、単なる「教えの言葉」を与えるだけではなく、神の国の体験、人としての正しい生き方、正しい信仰を、生活をとおして伝授するために十二弟子を選ばれたのです。弟子たちはハリストス(キリスト)を見、聞き、触れ、生きた交わりをした人たちでした。そして彼らはハリストス(キリスト)の「復活の証人」となりました。

弟子たちのもとへ聖神(せいしん)が降臨した時、彼らはハリストス(キリスト)の教えの意味、十 Continue reading “東方正教会の歴史 History of the Eastern Orthodox Church”

シラクサのルチア St Lucy of Sicily, Italy

http://italyofmyheart.wordpress.com

ITALY OF MY HEART

sic.jpg

lucia.jpg

シラクサのルチア St Lucy of Sicily, Italy

シラクサのルチア (イタリア語:Santa Lucia, 英語:Saint Lucy 伝承による生没年:283年-304年)は、聖ルチアの名で知られるキリスト教の殉教者。目、及び視覚障害者、そしてシラクサの守護聖人。

記念日は、西欧では12月13日。

『ルチア』とはラテン語で光を意味するLuxまたはLucidから派生した名前である。

確かなことは、ディオクレティアヌス帝支配下のシラクサで304年に殉教したという事のみである。彼女の犠牲はローマに広まり、6世紀には彼女を信仰の守護者として、教会全体で讃えるようになった。
ローマ人であったルチアの父が死ぬと、彼女と母エウティシアは何の後ろ盾もなかった。エウティシアは4年あまりも瀉痢に苦しんだが、ルチアは聖女シチリアのアガタの奇跡を聞きつけ、ミサに参加した。エウティシアの病が癒されるよう、2人は聖アガタの墓前で一晩中祈り続けた。いつしか母子は眠ってしまうと、ルチアの枕元に聖アガタが姿を見せ、『私がそうしたように、あなたはすぐシラクサの栄光となるのです。』と言った。エウティシアはたちまち全快した。
エウティシアはルチアを異教徒と政略結婚させようとしたが、ルチアは自身の処女を守るために、持参金を貧者への施しとしてほしいと拒んだ。エウティシアは持参金が良い遺産になると示唆したが、ルチアは逆に母を説き伏せた。自分にはより高貴な婚約者(すなわちキリスト) Continue reading “シラクサのルチア St Lucy of Sicily, Italy”