エギナの聖ネクタリオス St Nektarios of Aigine

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エギナの聖ネクタリオス

エギナの聖ネクタリオス (+1920)

(St Nektarios of Aigine Island, Greece)

エギナの聖ネクタリオス

エギナの聖ネクタリオス(ギリシア語: Άγιος Νεκτάριος Αιγίνης, 英語: Saint Nektarios of Egina、1846年 – 1920年)は、正教会の聖人。日本正教会で多用される教会スラヴ語由来の転写ではネクタリイ。

修道院の設立と指導、数多くの著述、信徒の精神的指導、および数々の奇蹟によって知られる。神学者、哲学者、詩人、教育者、禁欲主義者、神秘主義者などと称されるほどの多才な面があった。歌詞は公祈祷の祈祷文によるものではないが、全世界の正教会で愛唱される聖歌『アグニ・パルセネ』(ギリシア語: Αγνή Παρθένε)を作曲してもいる。

1846年10月1日、トラキアのシリヴリアの貧しい家庭に生まれた。生まれた際の俗名はアナスタシオス・ケファラス(ギリシア語: Αναστάσιος Κεφαλάς)。14歳のとき、働きつつ教育を受けるためにコンスタンディヌーポリに移住。1866年からはキオス島の学校で教えつつそこに7年間住み、30歳で修道士となる。3年後、輔祭となり、ネクタリオスの名を与えられる。1885年にアテネ大学を卒業。大学時代から、多くの聖書註解を含む多くの著述を行う。

アレクサンドリアで司祭に叙聖され、カイロの教会に奉職。これは名誉ある職分であった。1889年に敬神の念と説教者としての実力、牧会能力が評価され、総主教ソフロニオスによりペンタポリス府主教に叙聖される。すぐにネクタリオスの人望が高まるが、その声望を妬んだ聖職者達によって噂が立てられ、噂を信じてネクタリオスの弁明を聞かなかった総主教ソフロニオスにより、弁解の機会も与えられず教会裁判の手続きも経ず、エジプトから追放される。1891年にギリシャに戻り、何年かを説教者として過ごす。

1894年にアテネ・リザリオス教会学校の校長を任ぜられ、15年間在職しこの間多くの著作をのこす。1904年には何人かの修道女の求めに応じ、エギナ島に至聖三者女子修道院を設立する。1908年12月に神学校校長の職を辞し、エギナ島の至聖三者女子修道院に一修道士として隠棲する。ここでも著述を行い、精神的指導を求めて来る近隣の人々の痛悔を聞いた。
1920年11月9日、永眠。永眠後の遺体の傍らで、重病人が快癒する奇蹟が起きたと伝えられている。埋葬式には多くの人がギリシャ・エジプト全土から訪れた。1961年4月20日に列聖。生前からネクタリオスを聖人とみる人々が多かったが、正式な列聖はこの日に行われた。

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シラクサのルチア St Lucy of Sicily, Italy

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シラクサのルチア

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シラクサのルチア

シラクサのルチア (イタリア語:Santa Lucia, 英語:Saint Lucy 伝承による生没年:283年-304年)は、聖ルチアの名で知られるキリスト教の殉教者。目、及び視覚障害者、そしてシラクサの守護聖人。

記念日は、西欧では12月13日。

『ルチア』とはラテン語で光を意味するLuxまたはLucidから派生した名前である。

確かなことは、ディオクレティアヌス帝支配下のシラクサで304年に殉教したという事のみである。彼女の犠牲はローマに広まり、6世紀には彼女を信仰の守護者として、教会全体で讃えるようになった。
ローマ人であったルチアの父が死ぬと、彼女と母エウティシアは何の後ろ盾もなかった。エウティシアは4年あまりも瀉痢に苦しんだが、ルチアは聖女シチリアのアガタの奇跡を聞きつけ、ミサに参加した。エウティシアの病が癒されるよう、2人は聖アガタの墓前で一晩中祈り続けた。いつしか母子は眠ってしまうと、ルチアの枕元に聖アガタが姿を見せ、『私がそうしたように、あなたはすぐシラクサの栄光となるのです。』と言った。エウティシアはたちまち全快した。
エウティシアはルチアを異教徒と政略結婚させようとしたが、ルチアは自身の処女を守るために、持参金を貧者への施しとしてほしいと拒んだ。エウティシアは持参金が良い遺産になると示唆したが、ルチアは逆に母を説き伏せた。自分にはより高貴な婚約者(すなわちキリスト)がいるというのである。その異教徒は思いのままにならないルチアに怒り、彼女を実はキリスト教徒であり、神への犠牲として火炙りにすべきだと密告した。ルチアを引き立てに来た兵士たちは、彼女を動かすことができなかった。ルチアは聖霊に満たされた、山のように強固な存在となっていたのである。牛の一群に彼女をつないでも動かなかった。彼女の喉元に剣を突き立てても、ルチアは自らを迫害する者たちに予言していたのである。最後の拷問として、ルチアは両目をえぐり出された。奇跡が起き、ルチアは目がなくとも見ることができた。絵画や像では、彼女はしばしば黄金の皿の上に自分の眼球を載せた姿で描かれる。

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シラクサのルチア

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日本の聖ニコラス (+1912年2月16日) – St Nickolas Kasatkin of Japan (+1912)

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日本の聖ニコラス

(+1912年2月16日)

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ニコライ (日本大主教)

ニコライ(修道誓願前の姓:カサートキン、 1836年8月1日(ロシア暦) – 1912年2月16日)は日本に正教を伝道した大主教(肩書きは永眠当時)。日本正教会の創建者。正教会で列聖され、亜使徒の称号を持つ聖人である。

「ロシア正教を伝えた」といった表現は誤りであり(後述、ニコライ本人も「ロシア正教を伝える」のではなく「正教を伝道する」事を終始意図していた。

ニコライは修道名で、本名はイワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン。日本正教会では「亜使徒聖ニコライ」と呼ばれる事が多い。日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。

神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属聖堂司祭募集を知り、日本への正教伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本への正教伝道に捧げ、日露戦争中も日本にとどまり、日本で永眠した。

生涯

初期

スモレンスク県ベリスク郡ベリョーザの輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は5歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。

在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖された。ミラ・リキヤの奇蹟者聖ニコライは東方教会において重視される聖人であり、好んで聖名(洗礼名)・修道名に用いられるが、ニコライも奇蹟者聖ニコライを守護聖人として「ニコライ」との修道名をつけられている。

函館時代

翌1861年に箱館のロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、元大館藩軍医の木村謙斉から日本史研究、東洋の宗教、美術などを7年間学んだ。また、仏教については学僧について学んだ。

ニコライは慶応4年4月自らの部屋で密かに、日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨、函館の医師酒井篤礼、南部藩出身浦野大蔵らに洗礼機密を授けた。この頃、木村が函館を去った後の後任として新島襄から日本語を教わる。新島は共に『古事記』を読んで、ニコライは新島に英語と世界情勢を教えた。

懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った以後、精力的に正教の布教に努めた。

明治2年(1869年)日本ロシア正教伝道会社の設立の許可を得るためにロシアに一時帰国した。ニコライの帰国直前に、新井常之進がニコライに会う。

ニコライはペテルスブルクで聖務会院にあって首席であったサンクトペテルブルク府主教イシドルから、日本ロシア正教伝道会社の許可を得ることができた。1870年(明治3年)には掌院に昇叙されて、日本ロシア正教伝道会社の首長に任じられた。ニコライの留守中に、日本では沢辺、浦野、酒井の三名が盛んに布教活動を行った。

明治4年(1871年)にニコライが函館に帰って来ると、沢辺の下に身を寄せていた人々が9月14日(10月26日)に洗礼機密を受けた。さらにニコライは仙台地方の伝道を強化するために、小野荘五郎ほか2人を派遣した。ニコライは旧仙台藩の真山温治と共に露和辞典の編集をした。

東京時代

明治4年12月(1872年1月)に正教会の日本伝道の補佐として、ロシアから修道司祭アナトリイ・チハイが函館に派遣された。明治5年ロシア公使館が東京に開設されることになった。函館の領事館が閉鎖されたが、聖堂は引き続き函館に残されることになったので、ニコライはアナトリイに函館聖堂を任せて、明治5年1月に築地に入った。ニコライは仏教研究のために外務省の許可を得て増上寺の高僧について仏教研究を行った。

明治5年(1872年)9月に駿河台の戸田伯爵邸を日本人名義で購入して、ロシア公使館付属地という条件を付け、伝道を行った。明治5年9月24日東京でダニイル影田隆郎ら数十名に極秘に洗礼機密を授けた[注釈 1]。

明治7年(1874年)には東京市内各地に伝教者を配置し、講義所を設けた。ニコライは、神奈川、伊豆、愛知、などの東海地方で伝道した。さらに京阪地方でも伝教を始めた。

明治7年5月には、東京に正教の伝教者を集めて、布教会議を開催した。そこで、全20条の詳細な『伝道規則』が制定された。

明治8年(1875年)7月の公会の時、日本人司祭選立が提議され、沢辺琢磨を司祭に、酒井篤礼を輔祭に立てることに決定した。東部シベリアの主教パウェルを招聘して、函館で神品会議を行い、初の日本人司祭が叙任された。このようにニコライを中心に日本人聖職者集団が形成された。さらに、正教の神学校が設立され、ニコライが責任を担った。

明治9年(1876年)には修善寺町地域から岩沢丙吉、沼津市地域から児玉菊、山崎兼三郎ら男女14名がニコライから洗礼を受けた。

明治11年(1878年)、ロシアから修道司祭のウラジミール・ソコロフスキーが来日して、ニコライの経営する語学学校の教授になり、明治18年までニコライの片腕になった。

明治12年(1879年)にニコライは二度目の帰国をし、明治13年に主教に叙聖される。その頃の教勢は、ニコライ主教以下、掌院1名、司祭6名、輔祭1名、伝教者79名、信徒総数6,099名、教会数96、講義所263だった。同じ年、正教宣教団は出版活動を開始し、『正教新報』が明治13年12月に創刊された。愛々社という編集局を設けた。

明治13年(1880年)イコンの日本人画家を育成するために、ニコライは山下りんという女性をペテルブルグ女子修道院に学ばせた。3年後山下は帰国し、生涯聖像画家として活躍した。

明治15年(1882年)に神学校の第一期生が卒業すると、ロシアのペテルブルグ神学大学やキエフ神学大学に留学生を派遣した。

明治17年(1884年)に反対意見があり中断していた、大聖堂の建築工事に着手して、明治24年に竣工した。正式名称を復活大聖堂、通称はニコライ堂と呼ばれた。

明治26年(1893年)ニコライの意向により、女流文学誌『うらにしき(裏錦)』が出版された。明治40年まで存続し明治女流文学者の育成に貢献した。

明治37年(1904年)2月10日に日露戦争が開戦する前の、2月7日の正教会は聖職者と信徒によって臨時集会を開き、そこでニコライは日本に留まることを宣言し、日本人正教徒に、日本人の務めとして、日本の勝利を祈るように勧めた。

内務大臣、文部大臣が開戦直後に、正教徒とロシア人の身辺の安全を守るように指示した。強力な警備陣を宣教団と敷地内に配置したので、正教宣教団と大聖堂は被害を受けることがなかった。
神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。

不朽体

1970年、谷中墓地改修の際に棺を開けると不朽体が現れた。同年、ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖した。日本教会が聖自治教会となったのはこのときである。ニコライの不朽体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっている。列聖以降、日本の亜使徒聖ニコライ、聖ニコライ大主教と呼ばれる。記憶日(祭日)は2月16日(ニコライ祭)。

ニコライが伝道した「正教」

ニコライが「ロシア正教を伝えた」とする媒体が散見されるが、「ロシア正教会」「ロシア正教」は最も早くに見積もっても1448年に成立した独立正教会の組織名であり、教会の名ではない。「正教を伝えた」が正しい表現である。ニコライは「(組織としての)ロシア正教会に所属していた」とは言えるが、あくまで「正教を伝えた」のであり、「ロシア正教会」という「組織」を伝えた訳ではない[注釈 2]。

正教会は1カ国に一つの教会組織を具えることが原則であり各地に正教会組織があるが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、グルジア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会に教義上、異なるところは無く、相互の教会はフル・コミュニオンの関係にあり、同じ信仰を有している。

ソース:

Wikipedia

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日本の亜使徒聖ニコライ

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生神女マリヤ福音祭 – THE ANNUNCIATION OF VIRGIN MARY

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生神女マリヤ福音祭 

創造と、人が神様に対し大きな罪を犯してからというもの、神様は救い主イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)がこの世に来られることを人間のために準備しておられました。人は大きな罪をおかし、神様御自身が人類を救うために降って行かなければならないだろうと言うことを神様はいつもご存知でした。

人々が救いを受け入れ、主に従って行く用意ができる、その時を神様はまた前もってご存知でした。神様はまた、救い主の母となれる大変清らかで、神様に 従順な女の子が現れる時を前もってご存知でした。

聖なる乙女マリヤは、そうした清らかで神様に仕えるのに 充分 な人でした。

マリヤは、両親のお祈りへのお答えとして生まれました。三才の時、宮に連れて行かれ、神様に差し出されました。その時からずっと、マリヤは神様の家に暮らし、いつも神様にお祈りをするという奉仕の他は何もしませんでした。

マリヤが12才になり、これ以上宮にいられなくなった時も -律法でそのように決められていました- マリヤは、このまま神様にお仕えしたかったのです。でもマリヤに一体何ができたでしょうか? マリヤは、自分自身が、生涯を神様に差し出し、神様に仕えるために、生涯清らかでいることを望みました。だが、その頃はまだ女子修道院 というものは一つもありませんでした。そこで、マリヤも修道女になることはできなかったのです。マリヤは祭司のところへ行き、マリヤが心から望んでいることを話しました。その老祭司は、マリヤが神様を愛していることを聞いて大層喜びました。祭司は神様にお祈りし、神様は祭司に何をしなければならないかお答えになりました。マリヤには一人のごく身近な親戚がいました。多分、伯父さんだったのでしょう。大変年をとった人でイオシフ(ヨセフ)と言う名前でした。イオシフ(ヨセフ)の奥さんは、イオシフ(ヨセフ)がこれから育ててゆかなければならない子供をのこしてすでに死んでいました。

祭司はイオシフ(ヨセフ)に話し、マリヤがイオシフ(ヨセフ)の 許嫁 となれるようにし、そして、イオシフはマリヤを助ける支度をしました。こうしてマリヤは、生涯処女として神様に仕えることができました。同時にマリヤは、お母さんを亡くしたイオシフの子供たちの母親としての役目も果たすことができました。こうしてマリヤはイオシフ(ヨセフ)と結婚し、イオシフの家に向かいました。

神様がお決めになったある時、聖処女マリヤは部屋で神様にお祈りをし、縫い物のお仕事をしていました。と、突然、強い光が部屋を照らし、マリヤの前に一人の輝 いている天使が立っているのが見えました。マリヤはすっかり驚き、糸を下に落とし、明るい光から自分を守ろうとするように手を上げました。

光輝く天使は、マリヤに優しく、愛情をこめて、そしておごそかな声で「マリヤ、聖神に満たされた人、喜びなさい。主はあなたと共にいます。あなたこそすべての女の前で祝福される人です」と言いました。

それを聞いてマリヤはあわて、それ以上に驚いてしまいました。マリヤは思いました。「でも、私は卑しい罪人なのだ。私のことを『聖神に満たされた人』なんて、なぜこの天使は言うのだろう?」

それから天使は、マリヤが救い主の誕生を成させるために、ただ一人選ばれた者であることを告げました。「でも、どうして私に子供が生めましょう」マリヤは答えました。「私は処女ですのに。」

天使はマリヤを安心させました。「聖神があなたのところに来て、一番強い光があなたの上に 輝 くでしょう。」天使はマリヤに、これからマリヤが生もうとしているハリストス(キリスト)は神の子となるであろう、そして、子供が生まれた後になってもマリヤは処女のままでいるだろう、ということを話しました。

天使ガブリイル(ガブリエル)がそれを言うと、マリヤは床にひれ伏して、涙を流して神様にお祈りを始めました。

実に、マリヤのお腹にできた子は、心から神を受け入れ、神様について行こうとする人々を救うために人となられた神でした。私達が聖母マリヤを Theotokos(テオトコス)と呼ぶのはそのためです。テオトコスとは「神を生みし者」(生神女)と言う意味です。

この天使は、マリヤに別の不思議な誕生について告げました。「あなたの身内のエリザベタは一度も子供を生んだこともなく年をとっていますが、今、子供を宿しています。神様はエリザベタとその夫にも、子供が生まれるようになさいました。」この子は先駆者イオアン(洗礼者聖ヨハネ)となった人です。

しっかりとした信仰と謙遜によってマリアは大変すなおに神様のご意志を受け入れました。「私は神様の召使です」とマリヤは言いました。「あなたが言われるようになりますように」

こうして天使ガブリイル(ガブリエル)はマリヤと別れました。後になって、ガブリイルはイオシフ(ヨセフ)のところにも現れ、マリヤが生もうとしている特別な子供のことを告げました。マリヤは喜びに満ちていました。マリヤは今までよりも祈りと 斎 をはじめました。

できるだけ早いうちにマリヤはエリザベタが住んでいるユダヤ地方の町に出掛けて行きました。

主の使いの天使は、すでにエリザベタにはマリヤから生まれる特別の赤ちゃんについて告げていました。それは神ご自身が私達を救うために、小さな子供となって地上に来られる様子です。マリヤがエリザベタの家に入っていくとエリザベタはマリヤに会いに急いで出て来ました。マリヤは「おめでとう、エリザベタ」と親戚の挨拶をしました。その時、エリザベタのお腹の中にいた赤ちゃんのイオアン(ヨハネ)は喜んでおどりました。

エリザベタは「主の母が私のところに来てくれるとは何とすばらしいことでしょ う」と言いました。

マリヤはエリザベタのところで三カ月間暮らし、ナザレに帰りました。イオシフ(ヨセフ)は聖母を今まで以上に尊敬と畏れをもってお世話しました。

ソース Source:

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THE TRACES OF GOD IN JAPAN – SAMURAI MET ORTHODOXY

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The Traces of God in Japan

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Fr. Paul (Pavel) Sawabe

Paul (Pavel) Sawabe was the first Japanese student and catechumen of St. Nicholas of Japan after he had arrived in Hakodate, Japan in 1861. Paul was the first Japanese to embrace Orthodox Christianity and was an ardent disciple of the future St. Nicholas and was an active missionary. Through his efforts the Japanese mission drew many new Christians and in time he became the first Japanese to be ordained to the priesthood.

Takuma Sawabe was born in 1833 in Kochi prefecture. His original name was Yamamoto Kazuma. He was a student, with a cousin, of the samurai art of Ken-do (Japanese swordsmanship) and philosophy. In 1857, while walking off some heavy drinking, Yamamoto ended up with two watches stolen by his cousin, but which he tried to sell. Yamamoto fled to Hakodate to escape the police who had identified him as having stolen the watches. In Hakodate, Yamamoto married the daughter of a Shinto priest named Sawabe. Yamamoto, after marrying the priest’s daughter, became an adopted son of the priest and changed his name. Under his new identity Takuma Sawabe did not participate in the Shinto priesthood, but led a group that reverenced the Emperor and demanded expulsion of the foreigners. The Russian Consulate in Hakodate became a target of their plan for assassinations.

One night in 1865, armed with a sword, he confronted the Hieromonk Nicholas with the intent of killing him before he did any preaching. In the exchange of words that followed, Nicholas questioned why Sawabe would kill him without hearing about what Nicholas would have to say. So, Sawabe asked Nicholas to tell him about his Christian religion. As the young missionary talked, his words softened Sawabe’s heart, his interest increased, and he began to study the Christian doctrine. Soon, Sawabe was joined by a doctor friend, Sakai Tokurei, in a discussion group. They in turn were joined by two more friends, Urano and Suzuki, and so the group of catechumens grew. They themselves began teaching about Orthodox Christianity to other Japanese people. Yet at this time, the Japanese policy was still to persecute Christians and forbid conversion to Christianity.

Then in April 1868, with the Reader Bissarion Sartoff guarding the consulate office door, Nicholas baptized Sawabe, Sakai, and Urano with the baptismal names for Paul, John, and James respectively. They had become the first Japanese people to accept Orthodox Christianity. With their baptism Paul and his friends went on to preach their new religion more fervently.

As the threat of imprisonment and perhaps even execution increased in the Hakodate area, Hieromonk Nicholas sent Paul and his friends to travel else where in Japan to preach their new faith, but ultimately to gain greater safety for them. Not hearing from Paul for some months, Hieromonk Nicholas was very glad to receive news from Paul of his successes in Sendai, in northern Honshu. In time the opposition to Christianity subsided, and the now Archimandrite Nicholas began to look to expanding his missionary work to Tokyo.

It was Paul Sawabe whom Nicholas sent to Tokyo to review the situation for missionary work in the Tokyo/Yokohoma area and advise him of the potential for such work there. Paul’s report was one of optimism, and Paul advised Nicholas to come to Tokyo as soon as possible. So, in late January 1871, Archimandrite Nicholas arrived in Yokohoma and proceeded to Tokyo to set up his headquarters.

Local opposition to Christianity was still present. In February 1872, Paul Sawabe and many of his co-workers in Christ were arrested by the local police in Sendai. The officials were amazed that even among the children their answers to questioning showed a deep conviction to their Christian beliefs. Even though many had not been baptized none changed their position but were strengthened in their faith.

On July 12, 1875, at the second General Council of the Japanese mission, Archimandrite Nicholas decided that there was a need for native clergy, and named Paul Sawabe to be the first priest, and that John Sakai would be a deacon. A month later Bishop Paul of East Siberia came to Hakodate for the first sacraments of the Holy Orders in Japan and ordained the new priest and deacon.

Paul Sawabe continued to service his new faith as his church grew over the following decades. He was to survive his mentor and bishop by a year, dying in 1913.

Source:

WIKIPEDIA